平安時代後期、この地に根を下ろして約850年。本龍寺の昔と今をご紹介します。
承安4(1174)年、近江国の樋口左衛門尉正則は、源空上人の従者として近江国から遠江国へ下る途次に岡崎に止駐した頃〔岡崎市源空寺寺伝より〕、師の源空上人から別れて和泉村集落の西方〔現在の南本郷で丈山小学校の西付近〕入江対岸の高台に念仏道場を開いた。
左衛門尉正則の九代孫にあたる樋口正広は応仁2(1468)年、本願寺8世蓮如上人が、その弟子如光の懇請を容れて三河国西端村に来錫した折、蓮如上人の教化をうけて浄土真宗に帰依した。正広はこの時、蓮如上人から西蔵坊釋慶聞の法名を賜り、浄土真宗の念仏道場が誕生した。
弘治2(1556)年夏、落雷の災厄で道場が焼失したのを機に、新たに西北方の現在地(中本郷)に道場を移転した。すると庶民のこの近くへ移転してくる者が続々と相次いで、村の集落の地域・形態が変わってくる導火線を醸造するに至った。
慶長11(1606)年、本龍寺中興開山といわれる二休が尾州野夫村円光寺より33歳の時に道場主として養子してきた。二休は数年前から本願寺に出仕しており、彼が26歳の慶長5(1600)年夏に、徳川家康が会津に上杉景勝を討伐のため下野国小山まで赴いた時、本願寺教如上人はこれを陣中に慰問するため京都から小山へ旅行をしたが、この時二休も選ばれて往復とも随行した。帰途岐阜まで来たところ、ちょうど石田三成が家康軍の帰還するのを岐阜〜関ヶ原の線で撃破せんと兵力の配備中であったのに遭遇し、要所毎に抵抗を受けた。幸い二休は光成軍の家臣の出方弥次右衛門・同藤蔵の両名と縁故の間柄にあったので、この両名に先導させて無事に戦線をくぐり抜けることができ、大津の四十九院〔今の三井寺〕まで無事に教如上人を帰還せしむることを得た。この二休のはたらきに対し教如上人は非常に感謝され、その功績を賞して秘蔵の阿弥陀如来立像〔聖徳太子ご遺作と伝えられる〕を賜った。二休はこの尊像をはるばる背負って和泉村の道場へ安置し、その後も代々崇敬・礼拝した。
二休は念仏道場を改組して寺院化し本山から正式に寺号下附をうけ、本堂の新築も造成されている。本堂の規模は入母屋流造向拝付六間四面・総欅材造で、当時まだこの近辺で寺院建築らしきものは造営せられていない時だったから、その評判高く近隣郷邑の羨望の的であったと伝えられている。しかし、明治35(1902)年に大火災に遭い、聖徳太子ご自作の阿弥陀如来立像とともに惜しくも烏有に帰した。
元禄12(1699)年、棟行四間・梁間二間半・入母屋造二階建・楼閣式の茶所を新築。階下の土間には大茶釜があり人々が集う大集会場であったが、大正7(1918)年1月の降雪の夜、不慮の火災で烏有に帰した。
梵鐘と鐘楼は延享元(1744)年に建造せられた。梵鐘は昭和17(1942)年太平洋戦争中の金属回収の対象となり、鐘楼は昭和34(1959)年の伊勢湾台風で倒壊した。
山門は文化5(1808)年に都築弥厚翁が金300両を投じて寄進された。単層切妻造四脚門・総欅材造の華麗な建築で、殊に門扉は玉杢欅に総彫塑を施した豪壮な様式で、当時の東海道下で随一を誇るほどの出来だと称されていたが、明治3(1870)年9月の暴風で倒壊した。現在、境内の東屋東に当時の山門基礎石が遺されている。
明治35年1月の大火災で本堂を焼失。「小川橋の向こう岸から火柱が見えた」という証言が残っている。その後、九間四面・総欅造の本堂を再建。
しかし昭和20(1945)年1月の三河大震災で倒壊し、昭和23(1948)年にその材料を使って村中の人々が手作りで入母屋妻入間口七間の仮御堂を構築した。
昭和49(1974)年に現在の鐘楼と梵鐘を、昭和59(1984)年に同朋会館と水屋を、平成4(1992)年に表塀をそれぞれ再築している。
平成5(1993)年2月、樋口文昌前住職〔第25世〕逝去。会葬者約1,200名の葬儀が勤まる。
令和5(2023)年11月、樋口信子前坊守逝去。鍵役ご参集、会葬者約1,000名の通夜葬儀が務まる。
平成27(2015)年10月に本堂建設委員会発足、平成28(2016)年12月に建設起工式、平成30(2018)年12月に本堂竣工式・御本尊還座式が勤まり、入母屋撞木屋根流れ向拝付の木造本堂が完成する。1間=192pで間口7間×奥行11間。建築面積158.013坪、雨落ち面積188.145坪。
平成31年3月に本玄関完成。唐破風形状は、秀吉が建てた聚楽第の一部ともいわれる西本願寺の国宝飛雲閣の曲線ラインが参考せられている。
平成31(2019)年3月に本堂落慶奉告法要、蓮如上人500回御遠忌法要、宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要が勤まる。稚児行列に約1,000名の稚児が集う。
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